バーチャルYouTuberの「キズナアイ」がNHKのノーベル賞特設サイトに登場したことについて、ネット上で議論が起きた。太田啓子弁護士は「このイラストを使う感覚を疑う。女性の体はしばしばこの社会では性的に強調して描写されアイキャッチの具にされる」と批判。社会学者の千田有紀さんは『ノーベル賞のNHK解説に「キズナアイ」は適役なのか?』というYahoo個人の記事で、相槌を打つ役割を担わされているキズナアイのジェンダーロールの問題を指摘した。
私がここで取り上げたいのは、議論の内容そのものではなく、こういう議論がどのような場で行われるのが良いのかという「土台」の問題である。千田さんはヤフー記事への批判の反論として、Twitterでこう投稿している。
“私自身は「表現の自由」は国家から規制されるべきものではない、とは思う。でもそう思うからこそ、国家から規制されるまえに、「市民的公共性」を発達させないといけないと思うんですよ。”
私自身は「表現の自由」は国家から規制されるべきものではない、とは思う。でもそう思うからこそ、国家から規制されるまえに、「市民的公共性」を発達させないといけないと思うんですよ。
— 千田有紀 (@chitaponta) 2018年10月3日
あと表現って、さまざまな他者への配慮のなかでこそ磨かれていくものだと思う。フリーハンドの表現なんてない。
ここで出てくる「市民的公共性」というのは、ドイツの思想家ユルゲン・ハーバーマスの言葉だ。わかりやすく言えば、自律的でオープンで、平等な議論ができる場所のことで、「公共圏」という言い方もする。千田さんはこう書いている。
“市民的公共性は対話によるものですから、そのことを話し合うことが大切だと思います。 いままさに起きていることが、市民的公共性なのではないでしょうか?”
議論が「コーヒーハウス」でオープンに行われた時代市民的公共性は対話によるものですから、そのことを話し合うことが大切だと思います。
— 千田有紀 (@chitaponta) 2018年10月4日
いままさに起きていることが、市民的公共性なのではないでしょうか?
ここで私が問題にしたいのは、この「市民的公共性」とは何か?ということだ。そこでまず、歴史をおさらいしてみよう。社会全体のことを議論し、決めることを「公」と言うが、これは中世ぐらいまでは王様や朝廷や幕府や貴族や、そういう人たちに独占されていた。一般人は王様の決めた「公」に平伏して従うしかなかったのである。
ところが産業革命が起きると、一般人の中からお金持ちが現れて、彼らが力も持ち始める。王様や貴族も彼らブルジョワジーの力を無視できなくなって、宮廷の外側で政治や社会の議論をする場所が生まれてきた。その典型が17世紀ぐらいにできてきたイギリスの「コーヒーハウス」で、ここでみんなでコーヒーを飲みながら、酔っ払わずに、平等にオープンに、政治を議論したのである。
しかし「市民の公」の良い時代は長く続かなかったハーバーマスには『公共性の構造転換』といういまや古典となった名著があって、この本では市民的公共性がコーヒーハウスなどによって実現したということが書かれている。王様や貴族の「公」に対抗する市民(ブルジョワジー)がつくる「公」だから「市民的公共性」、つまり「市民」の「公」である。
でもその「市民の公」の良い時代は長く続かない。19世紀になってさらに下層の労働者が政治に参加するようになり、新聞などのマスコミが力をもつようになると、プロパガンダや広告宣伝などによって市民の公はゆがめられるようになってしまう。自律的で平等でオープンな議論という機能が、だんだんと奪われていってしまう。ハーバーマスはそう指摘した。
ただ、ハーバーマスの本の議論には、批判も多い。その中でも中心的なのは、ハーバーマスのいう「市民」ってしょせんはブルジョワジー=資本家のことじゃないか、というものだ。
ここで『公共性の構造転換』の刊行時期を見ておく必要がある。この本が出たのは1962年。この後しばらくして、1960年代末になると世界中で学生運動の嵐が吹き荒れるようになる。そして1970年代に入るとこの運動の流れの中から、環境保護運動やフェミニズムなど新しい社会運動が広がった。ハーバーマスの本ではこういう流れは予想できなかった。
それでハーバーマスはどうしたかというと、『公共性の構造転換』の新版が1990年に出た時に新しい序文を書いて、いったんは衰退した市民の公が新しい社会運動とともに復活してきているということを説明したのだった。大きな公の場所が衰退はしているけれど、福祉や教育、医療などさまざまな分野で公の議論をする社会運動が生まれてきて、そういうたくさんの運動のゆるやかなネットワークという新たな市民の公ができてきている。ハーバーマスはそういうようなことを書いた。
さて、これで歴史のおさらいは終わり。ここから先が、21世紀のいまの話である。
「マイノリティの選別」という新たな困難がハーバーマスの話が90年の序文のところで終われば、「新しい市民のネットワークは素晴らしい、市民の公バンザイ!」で一件落着だったろう。しかしそんなハッピーエンドは現実にはまったく用意されていなかった。いまやもっと困難な新しい事態が起きている。
それがなにかといえば、たとえば過剰なポリティカル・コレクトネス(ポリコレ、政治的正しさ)の世界的な蔓延であり、それと表裏一体の「マイノリティの選別」である。アメリカでは人種差別や性差別については過剰なまでに正しさが求められている一方で、格差が進む中でたいへんな目に遭っている貧困層の白人は黙殺されて、その怒りがドナルド・トランプ大統領を誕生させた。
これはアメリカだけでなく日本でも同じようなものだ。日本ではジェンダーや障害者、在日差別、シングルマザー、生活保護家庭などへの差別がさかんに問題にされる一方で、福島県民は「汚染した土地にしがみつく人たち」と打ち捨てられ、オタクは「気持ち悪い」と差別され、キモカネおっさん(キモくて金のないおっさん)はまったく無視されている。
欧州では、リベラリズムの国でイスラムを揶揄するような漫画が新聞などに掲載され、それが「表現の自由」だとして擁護されている。イスラムの人たちはマイノリティじゃないのだろうか?
個人の好き嫌いで排除される「庇護されるべきマイノリティ」への差別は強く批判され、それへの批判は「表現の自由」でさえも制限されて良いというような意見が出てくる。なのに「排除されたマイノリティ」への差別は看過され、それへの批判は「表現の自由」として擁護されることさえある。これはいくらなんでも不平等ではないか。
私は、あらゆるマイノリティの権利は保護されるべきだと考えており、選別されるべきではないと考えている。すべてのマイノリティが救われる世界は遠いのは事実だけれど、少なくともそこに不平等や排除が存在していないのかについて、常に意識を働かすべきだと思っている。しかし現実には、そうなっていない。ひどい場合には、個人の好悪の感情(オタクは気持ち悪い、など)だけで選択が行われてしまっている。
そういう中で、市民の公は揺らいでいる。いや、揺らいでいるというよりは、もともと「市民」「公」というものに内在していた矛盾が、21世紀になって露呈してきたという方が的確だろう。
「市民」とは誰か? 選ぶ基準はどこに?このような状態では、今一度、次のふたつの問いかけに立ち返らなければならない。
第一に、「市民」とはいったい誰のことを指しているのか? 排除や選択はそこに存在していないか?
第二に、「市民の公」があるとすれば、そこで「選ぶ」「選ばない」や「表現の自由は守られる」「表現の自由は制限してもいい」という基準は、どのようにして誰が決めるのか?
落ち着いた議論が成立しにくい理由インターネットという新しいメディアは、誰もが平等に、オープンに発信できる自律的な空間である。その意味で、ハーバーマスの考えた市民的公共性の理想にだって決して遠くない。しかしその市民の公は、非常に脆く、バランスを崩しやすい。
ハーバーマスは、マスコミが発達すると近代の「市民の公」が堕落して、衆愚になってしまうと考えた。でもいま起きているのは、エリートと衆愚というような単純な区分けではなく、価値観が多様化している中で、これまでの「市民」の価値観に当てはまらない人だってたくさん現れているということだ。
おまけに「市民の公」への参加者のあいだで、共通の理念も共有されていない(正義のぶつかりあいを見よ)ことが3・11以降には明白になってきた。だからますます、着地点のある落ち着いた議論が成立しにくい。
SNSで行われる議論に必要な意識私はその困難さの理由のひとつには、TwitterをはじめとするSNSの構造の難点にあるのではないかと思っているが、現状はこのような構造の中に私たちの公共圏は危うくぶら下がっている。だとすれば、そこで行われる議論はより攻撃的ではない方へ、より抑制的な方向へと意識することが必要なのだと思う。
具体的に言えば、「表現の自由」のような制限をかけやすいネガティブな方向については、より抑制的に自由を侵害しないようにすること。いっぽうで、マイノリティの包摂のようなポジティブな方向については、選別せず積極的にみんなを包摂していくこと。
いまのネットの議論では、なぜか表現の自由は制限の方向へと進みやすく、包摂は選別されやすくなっている。これは明らかに逆ではないだろうか。
選択・排除と過剰な制限へは、なるべく踏み込まないことだ。そのうえで、何を選択するのかということは、日本社会という大きな枠ではなくて、より小さな文化圏の中で考えられていけばいいと思う。
ある文化が育って社会全体に影響を及ぼすようになれば、社会全体での「何が選ばれるか」は自然と、みんなが気づかないうちに変わっていく。萌え系やアニメ画などがかつてはオタクカルチャーの中だけで消費されていたのが、最近は老若男女に愛されるようになってきているのは、そういう流れの象徴だと思う。「市民の公」という大きな空間での選択・排除や制限ではなく、小さなところからスタートする文化の力によって、流れは作られていくのだ。
自主的な規制ではなく、そういう文化への期待こそが、これからの「市民の公」ではないかと思うのである。
(佐々木 俊尚)
(出典 news.nicovideo.jp)
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